大切な人の死は生きる力になる

青空に輝く太陽 人生観
雲の切れ間に燦燦と輝く太陽

こんにちは、ippo(いっぽ)です。

突然ですが、あなたはこれまでの人生で”死”と向き合ったことはありましたか?

幼い頃に祖父母を亡くした、病気や事故で親しい友人や家族を失った、親しい人が大切な人を亡くしたなど……。

亡くなった人と過ごした日々の濃さや関係性によって、”死”に対する感情は大きく変わるものです。

今回は、人生のテーマとしては非常に重い”死”について話してみたいと思います。

誰もが1度は”死”と向き合わされる

人生の長さにかかわらず、誰もが1度は”死”と向き合ったことがあるのではないでしょうか?

私は幼い頃に父方の祖父母を亡くしましたが、幼稚園に上がる前で幼く、祖父や祖母の”死”を本当の意味で理解することはできませんでした。

父の実家は遠方にあり、数年に1回会えればいいと言えるくらい行き来は少なかったため、祖父母が亡くなった後も自分の生活に大きな変化はなかったと記憶しています。

しかし、中学生の頃に同級生を火事で亡くしました。

彼女とは同じ委員会で月に1回顔を合わせたり、校内で会ったときに挨拶したりする程度の関係で、親しいと言える間柄ではありませんでしたが、突然の訃報に大きな衝撃を受けたことは数十年経った今でも鮮明に覚えています。

訃報を受け取った日の選択授業は彼女を悼む時間として、それぞれが彼女との思い出を振り返っていました。

彼女ととくに親しかった生徒たちのすすり泣く声が教室に響き渡って……、今思い出しても目頭が熱くなります。

選択授業では誰も言葉を交わすことはなく、ただ沈黙の中で彼女との思い出を振り返っているようでした。

私も彼女との少ない思い出や記憶を辿っていました。

彼女はいつも笑顔で誰に対してもやさしい人でした。

私と彼女はクラスが違いましたが同じ委員会になり、挨拶を交わすだけの関係。

それなのに、同じ委員会になった年度に律義にも年賀状を送ってくれたのです。

私はそれだけで彼女のファンになってしまいました。

今でもよい思い出として胸にしまってあります。

そんな彼女だからこそ、彼女の”死”はショックでした。

間違いなく、私の人生で初めて身近に”死”を強く感じた出来事だったと言えます。

社会人に入ってからは、母方の祖父が寿命を全うしました。

さらに、職場や過去に仕事をご一緒した高齢のパートさんが事故や病気で亡くなりました。

どちらも人柄がよく、働き者の素晴らしい人でした。

”命”あるものには寿命があり、必ず”死”が訪れます。

誰もが100歳を超える寿命を全うし、大往生で亡くなることができれば幸せな人生と言えるかもしれません。

でも重要なのは人生の長さではなく、人生の”密度(濃さ)”ではないかと思うのです。

大切な人の”死”は生きる力にできる

昨年、遠方に住む伯母が急逝しました。

伯母との思い出は幼い頃や祖父母の法事で会ったときのことがほとんどです。

大らかでやさしく包み込むような包容力のある素敵な女性でした。

親戚のおばやおじの中では一番話がしやすく、伯母も人見知りな性格の私をいつも気遣っていてくれ、今思うとそんなやさしさを幼心に感じ取っていたように思います。

伯母が亡くなり、私自身も悲しさは感じましたが、やはり離れて暮らしていると実感を感じにくいものです。

高齢だったのもあり、伯母の”死”は誰もが訪れるものだと素直に受け入れることができました。

ただ、自分の父母のどちらかだったら、そう簡単に割り切って考えることができただろうか?という疑問が頭に浮かんだのです。

そんなときに出会ったのが、山本時嗣さん著書の『死を力に(光文社)』という本でした。

この本から学んだのは、大切な人の”死”は悲しんで死者を悼むだけでなく、残された人が生きていく力に変えるパワーがあるということです。

誰に教わったわけではないけれど、これまで”死”について触れることはタブーのような気がしていました。

誰かの”死”の裏には必ず悲しんでいる誰かがいるからでしょう。

それはきっと、”死”を扱うことは死者への冒涜だと思わせるような考え方が古くから根付いていたからではないかと思うのです。

たとえば、葬儀会社や2008年ヒットの映画『おくりびと』で注目を集めた納棺師など、人の”死”に携わる職業の人は昔からネガティブなイメージを持たれてきた歴史があります。

ただ近年は葬儀や”死”に対する価値観も変わってきています。

従来は親族だけでなく、仕事関係や町内会など、多くの人が参列できる一般葬が主流で、葬儀の準備は遺族や喪主が行うのが一般的でした。

最近は家族だけで故人を送る「家族葬」や、お通夜を省略して葬儀と火葬を1日で行う「1日葬」などの需要も高まっています。

また、葬儀会場に故人の写真や思い出の品を飾る「メモリアルコーナー」を設置するケースもあり、形式的な葬儀よりも故人の生前の希望や遺族の想いなどがより反映された葬儀が執り行われるケースも増えています。

理想的な人生のエンディングを迎えたいと考える人や、自分の死後に子どもの負担を少しでも減らしたいと考える人の中には、葬儀の形式や内容からお墓の予約までを生前に決めてしまう人も少なくありません。

私個人の意見ですが、”死”のイメージはネガティブなものからポジティブなものへと変わりつつあると感じています。

悲しみにくれて涙で故人を見送るよりも、笑顔で送り出そうという人や家族に笑顔で見送ってほしいと考える人が増えているからなのかもしれません。

もちろん、故人がどのような”死”を迎えたのかによって、心の準備ができずに悲しみにくれてしまう場合もあるでしょう。

私はそれが悪いことだとは思いません。

大切な人の”死”を悼み、悲しむことを誰も咎めることはできません。

言葉にならない空虚さを感じたり、涙が止まらなくなったり、涙も出ず呆然としたり……それは全て大切な人を失った人の特権ですから。

ただ、数カ月、数年と悲しみにくれて殻にこもり続けるのは、自分のためにも故人のためにもならないと思うのです。

だって故人はあなたに「いつも幸せでいてほしい」と願っているはずだから。

故人はあなたの幸せを願っている

大切な人の”死”に触れ、悲しむ人へかける言葉選びは非常に難しいものです。

「好きなだけ悲しんでいいんだよ」と言えば、故人の”死”をいつまでも受け入れることができず、故人に執着し続ける恐れがあります。

一方で「あなたが笑顔でいることが故人の願いだよ」と前向きな言葉をかけても、「そんなことはわかっている」「今は辛くて何も考えられない」と反発し、相手との心の距離が離れてしまう可能性も考えられます。

山本時嗣さんの著書『死を力に』で印象的だったのは、故人の”死”への捉え方を変えていることでした。

大切な人の”死”によって紡がれた新たな縁や、故人の遺志を継ぐ決意など。

そう、著者は大切な人の”死”を自身の「生きる力」に変えたことで、人生が大きく変化していったそうです。

その考えに至るまでに、たくさんの葛藤があったことでしょう。

自分にとって大切な人であればあるほど、その人の”死”を受け入れるには時間や氣力がいります。

そんなときの考え方の1つとして知っておきたいのが、「故人はあなたの幸せを願っている」という視点です。

一見使い古されたような言葉に思いがちですが、とても深い意味が込められています。

故人は「もう泣かなくていいよ。悲しまなくていいよ」という気持ちを代弁しているという捉え方もあれば、「私の分も生きてほしい」「私の分も幸せになってほしい」という故人の願いとして捉えることもできるからです。

もしも、自分が故人の立場だったとしたら、やはり自身の人生をないがしろにしてまで悲しみにくれていてほしいとは思いません。

大切な人であればあるほど、「悲しいままでもいいから、元気を出して自分の人生を歩んでほしい」と思うでしょう。

とはいえ、大切な人を失ってしまった人が元気を取り戻し、自分の人生を歩めるようになるには、周囲のサポートが必要だと思うのです。

大切な誰かを失った人をサポートするには

大切な人を失ってしまった人を元気づけたい、こもり続ける殻から連れ出したいとは思うものの、どのような言葉をかければいいのでしょうか?

昨年伯母を亡くした際は葬儀に参列できなかったため、残された従姉が心配で仕方ありませんでした。

本当は直接会って夜通し伯母との思い出話をしたり、抱きしめたりしてあげられればよかったのかもしれません。

ビデオ通話や電話、メールなど、コミュニケーション方法はいくつも考えたものの、今一つピンときませんでした。

そこで考え至ったのは手紙です。

思いの丈を手紙にしたため、葬儀に参列する親族にその手紙を従姉に手渡してもらうことにしました。

これまで密なコミュニケーションを取ってこなかったことを恨めしく思いつつ、突然の手紙に困惑させてしまったのではないかと不安に駆られた日もありましたが、結果的に手紙を喜んでくれたことが分かり、手紙を書いてよかったなと思いました。

誠意をもって気持ちを込めた手紙であれば、直接会って話さなくても気持ちは十分に伝わるのだと実感した瞬間でした。

相手の年齢や相手との関係性、状況などによって、どのようなコミュニケーションを取ればいいのかは変わりますが、何より大切なことは誠意をもって接することだと思います。

もしも身近な人が大切な誰かの”死”と向き合っている人がいる場合は、様子を見ながら自分にできる範囲でサポートをしてあげてほしいと切に願います。

たとえ自分の為にならないことであっても、巡り巡ってあなたの大切な人が別の誰かに助けられることもあるかもしれませんから。

誰かのやさしさが、誰かの心を癒し、その誰かがまた別の誰かを癒し、やさしさに包まれる人が増えれば、やさしい世界になるはず……。

私はそう信じたい。

 

大切な人を失った人にかける言葉が見つからない場合、山本時嗣さんの著書『死を力に(光文社)』をプレゼントするのも1つの方法です。

私自身も近々、奇跡的に伯母を失った従姉と再会するため、そのときにこの本と、本文で紹介されていた、かげした真由子さん著書の『命日占い(サンマーク出版)』を一緒にプレゼントしようと思います。

大切な人を失った人と同じ感情や痛みを共有することは難しいですが、せめて「離れていても、いつもあなたを思っているよ」「いつでも力になるよ」「頼ってくれたらうれしい」という気持ちが伝わればいいなと思うのです。

もしも”死”に対してネガティブなイメージを持っている方は、『死を力に』や『命日占い』を手に取ってみてはいかがでしょうか?

大切な人を失ったときに立ち直るためにできること

自分が大切な人を失ってしまったときは、どうすれば立ち直ることができるのでしょうか?

そのヒントはまさに、「大切な人の”死”を生きていく力にする」にあります。

大切な人の”死”をどのように捉えるのかによって、あなたがこれから生きていく上でパワーにすることができるのです。

悲しみの後にポジティブな考え方ができるようになれば、もう心配はいらないでしょう。

大切な人の”死”を自分の人生の一部として受け入れ、「故人の分も精一杯生きよう」「故人が応援してくれた夢を叶えよう」と次の一歩を踏み出すことができます。

もしもあなたが大切な人の”死”をネガティブに捉えた場合、生きる力を失ったり、日常生活さえも捨て去ってしまったりしているかもしれません。

「あの人がいないと私は生きていけない」「今まで楽しかったことに面白さを感じない」と思うこともあるでしょう。

人によっては「私は故人の”死”を悲しみ続けなければいけない」「私は幸せになってはいけない」「私が悲しまなければ故人が悲しむ」と考える人もいるかもしれません。

では、もしも人が亡くなった後に苦しみや悲しみなどのネガティブな感情を手放すことができるとしたら、どうでしょうか?

故人が自身の”死”を悲しんでいないのに、残されたあなただけがいつまでも悲しみに暮れていたとしたらどうでしょうか?

もちろん私は死後の世界が本当にあるのか、亡くなった人が苦しみから解放されるのかは分かりませんし、それを知る術もありません。

ただ、『死を力に』という本を読んで、1つの考え方として死後は肉体を失うが、「意識(魂)は残る」というものがあります。

難しいことは分かりませんが、実際に臨死体験をした人の中には、三途の川や花畑など、あの世へ行く途中に誰もが通るであろう場所は存在していると言います。

そして”死”への恐怖や不安はなく、むしろ安らぎや温かさを感じる人もいるようです。

もしもそれが真実なら、人は”死”によって肉体を失っても魂は生き続けられるということが言えます。

そして大切な人は”死”というプロセスを経て、魂として生き続けているのかもしれません。

だとすれば大切な人の”死”は必ずしもネガティブなことではないということです。

人が人生の中で幾度と迎える通過儀礼のようなものが、魂にとっての「肉体の”死”」なのかもしれませんね。

あの人に、あのコに、出会わなければよかったと思いますか?

大切な人の”死”と向き合うことはとても辛いことです。

それが人であれ、動物であれ、自分にとって人生に欠かせない大切な存在であるほど、自身の無力さや亡くなった者への後悔、やりきれない想いが重くのしかかるでしょう。

でも、その人やそのコは確かに私やあなたの人生に数えきれないくらい素晴らしい時間と想い出をつくってくれたことは事実です。

「こんなに辛く悲しい想いをするくらいなら、出会わなければよかった」とは思いませんよね。

「あの人に、あのコに会えて幸せだった」「素敵な時間を過ごせた」「私の知らない世界を教えてくれた」「私の人生を一緒に歩んでくれた」「辛いとき、さみしいときにそばにいてくれた」

こんな風に感謝してもしきれない想いが込み上げてきませんか?

今、言葉に出して伝えてみませんか?

「ありがとう」と。

「私と出会ってくれて、ありがとう」

「私の大切な存在になってくれて、ありがとう」

「私に素敵な想い出をつくってくれて、ありがとう」

「私に宝物を残してくれて、ありがとう」

「私に生きることの楽しさを教えてくれて、ありがとう」

「辛いとき、悲しいとき、さみしいときに一緒にいてくれて、ありがとう」

「生まれてきてくれて、ありがとう」

あなたの大切な存在はあなたの中で生き続けている

”死”に対するイメージが少し変わったという人もいるのではないでしょうか?

私自身も改めて”死”について深く考えてみて、これまでとは違った捉え方ができたように思います。

それと同時に、今自分のそばにいる人も大切にしたいと思いました。

いつかは、自分や相手に”死”が訪れます。

そのときに後悔のないように、今日から1日を、1つの言葉を、1つの行動を大切にしていこうと思います。

 

このブログが、誰かの明日の生きる氣力につながってくれれば幸いです。

コメント欄も開いているので、「今の辛い気持ちを誰かに聞いてほしい」「私はこんな風に思う」ということがあれば、ぜひコメントをお寄せください。

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